私が描いていたものは、ある近さだ。自分は絵に絵の具を置くためにいる、と感じるような絵との近さ。
でもそれはある距離を色に置き換えることで、ある距離とは自分と対象との距離で、その対象とは自分と自分からどのくらいか離れた実際にある物体との距離ではなく、自分と、自分の内的な何かと響きあう外部のもの、それとの距離を慎重に色に置き換えるというようなことだった。
その外部に気づくこと、それとの正確な距離を色に置き換えること、それが発見だった。自分のことでありながら自分だけのことじゃない。発見は最後に来て、そのまま絵のタイトルになり、完成する。そんなものを自分の絵だと感じていた。
オランダに移ってからもいつも何か作っていた。時間とお金はたくさんもらったので、いつも何か作っている他なかったがそれはきつかった。たくさん作ったけれどどれを見せていいかわからなくなった。おもな原因は、言語も含む、深いところでのカルチャーショックだと思う(恥ずかしいが)。自分の親しんできたものの見方や考え方とは異なるやり方がある。初めはそれが刺激的で、それはきっと自分が優位だからで、いつの間にか異なるものが自分のものになっていくとどっちが自分かわからなくなる。身動きが取れなくなり、立ちすくむ、自分が何をするか決めるのに時間がやたらにかかるようになってしまった。
なぜ、あの人らはペインティングを何かの上に描くのをそんなにも当たり前と思うのか。家に家具があるのは当たり前か。自分は何を絵の具に置き換えているのか。
今なら答えはわかる。全部見せたらいいのだ。そうしないと始まりさえしないんだから。
決められない時間が長くなる中、身につけるもののことを考えていた。身につけるものを引き出しから引っ張りだすときにおこっている何か。棚のものをふと手に取るとき。それはファッションというより、暗いところで起こる、自分と世界との交渉ごとだ。
だが、それとの距離感はなかなかつかめない。即興的で、見えるほど離れれば遠すぎ、身につけていると近すぎて見えない。見る前に引く、というようなことだ。ドローイングを描くみたいに。
なぜドローイングをもとにペインティングを描かないの?とはなんども聞かれたけど、あれは生活から剥がれる角質のようなもので、断片のままでいいと思っていた。以前は、絵を描く前に作っていた立体をドローイングと呼んでいて、それを作ると平面で何をしたらいいかわかったからそう呼んでいた。ここでいう「ドローイング」は絵の後にくる感じのものだった。
11年暮らしたオランダを離れ、また日本に暮らしはじめた。オランダの暮らしはとても好きだったが、おかしいことに、オランダが恋しいかどうか、友人から聞かれるまで考えもしなかった。
でもあるとき、自分が日本でオランダの空気に包まれていると感じた。ひどく冷え込んできたときや、雨が降り続いたとき。
冷えた空気を自分の体が知っている。雨の降る日のことを体が知っている。そのことを皮膚が思い出すと周りの空気がオランダの空気になって私を包む。そのとき私はオランダを「身につけて」いると感じた。それが目に見えなくても。
友人への返事にオランダが恋しい、と書いた。本当に恋しくなるのはこれからなのかもしれない。
そうちゃんの落書き