マイ・ホランド

私が描いていたものは、ある近さだ。自分は絵に絵の具を置くためにいる、と感じるような絵との近さ。
それはある距離を色彩に置き換えることで、ある距離とは自分と対象との距離で、それは自分と自分からどのくらいか離れた実際にある個体との距離ではなく、自分と、内的な何かとの距離を色に置き換えるというようなことだった。

内的なあるもの、それとの距離、に気がつくことは発見でもあった。自分のことだけど自分だけのことじゃない。発見は最後に来て、そのまま絵のタイトルになり、完成する。 そんなものを自分の絵だと感じていた。

オランダに移ってからは描くものに苦労した。原因の多くは、言語も含む、深いところでのカルチャーショックだと思う(恥ずかしいが)。自分の親しんできたものの見方や考え方とは異なるやり方がある。いったん知ると、自分の中でその違ったもの同士がお互いを打ち消そうとはたらく。それが続いて身動きが取れなくなる。そんな状態がいつもあった。立ちすくみ、自分が何をするか決めるのに時間がやたらにかかった。

あるときから、身につけるもののことを考えていた。身につけるものをタンスから引っ張りだすときにおこっている何か。棚のものをふと手に取るとき。それはファッションではなく、暗いところで起こる、自分と世界との交渉ごとだ。
だが、それとの距離感はなかなかつかめない。即興的で、見えるほど離れれば遠すぎ、身につけていると近すぎて見えない。見る前に跳ぶ、というようなことだ。ドローイングを描くみたいに。(そして、あたりまえに行われていることだ。)

11年暮らしたオランダを離れ、また日本に暮らしはじめた。オランダの暮らしはとても好きだったが、おかしいことに、オランダが恋しいかどうか、友人から聞かれるまで考えもしなかった。
でもあるとき、自分がオランダの空気に包まれていると感じた。ひどく冷え込んでいるときや、雨が降り続いたとき。
冷えた空気を自分の体が知っている。雨の降る日のことを体が知っている。体からわき上がってくる服に包まれている。そのときわたしはオランダを「身につけて」いると感じた。それが見えなくても。

友人への返事にオランダが恋しい、と書いた。でも何かたのしい。きっとそれが私の歌だからだ。

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落書き、 荘介

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このページは、tomokoが2018年1月12日 02:54に書いたブログ記事です。

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